a2c [MellowJamStudio] のブログ

ギタリスト / 音楽クリエイターとして音楽制作活動するa2cのブログです。

母の尊厳

2017年12月25日、母が息を引き取りました。
享年72歳でした。
生前、励ましの言葉を下さった皆様、有難う御座いました。



母は僕が幼い頃からリウマチを患っていました。
今では様々な治療方法が確立されているようですが難しい病気で、
母の場合はその治療の過程でステロイド系の薬も服用しており、
その副作用により糖尿病や、2006〜2007年頃には乳がんも患いました。
がんは切除しその後抗癌剤治療(当時の担当医には「10年生存率を10%上げる為の治療」と説明を受けた)も行い乗り越えましたが、
2011年8月初旬、趣味の庭いじりをしている最中に脳出血で倒れ、
右脳の出血だった為言語への障害は無く半年後には自宅に戻る事が出来たものの左半身には麻痺が残り、
右半身は筋肉の衰えとリウマチの痛みで歩行は困難になり趣味を嗜む事すら叶わなくなりました。
糖尿病により脳卒中のリスクが高まっていた事を踏まえれば、
母が患った病は全てリウマチの治療の過程で発症したものと言っても過言では無いと思っています。
これまで何度も病院での診察に同席し、時には辛い宣告を受ける場面にも立ち会いましたが、
母は家族(特に我々子供達)に対しては決して弱音を吐きませんでした。
毎年春、夏、年末年始には妻と2人で帰省していましたが出発の際はいつも明るい表情で送り出してくれて、
弱さを見せまいとする姿勢に奮い立たされ、それが僕の音楽活動のモチベーションを高めてくれていました。


そんな母が2017年12月18日早朝に呼吸困難で心肺停止となり、病院に運ばれました。
同居する家族の迅速な対応により一命は取り留めたものの一時的な無酸素状態による脳へのダメージは大きく、
僕が地元の栃木県の病院に駆けつけた頃には人工呼吸器と昇圧剤でかろうじて生命を維持している状態でした。
医師の診断は『脳死』。最も恐れていた事が現実に起こってしまった。


家族皆で付き添いのスケジュールを組み、僕は個室の一角に簡単なモバイルDTM環境を作って少し長めに滞在させて頂く事にしました。
「ご本人に意識はなくとも、言葉は伝わると思います」という看護師の助言を貰っていたので実際に積極的な声掛けを実践したところ、
涙を滲ませる反応を何度か見せてくれた為、不完全ではあるものの無意識下の母とコミュニケーションが取れた事が嬉しくて
日中は母の耳元に小さなワイヤレススピーカーを置き、タブレットから母の好きだった音楽を流す事にしました。
消灯後はスピーカーからの音楽の再生を止め、ノートPCとイヤホンで自分の音楽作りに集中しました。
自分の言葉が確かに届いているという手応えと、暗闇の中で心拍モニターから一定のリズムで刻まれる光と音により
弱々しいながらも、まだ母が生きようとしてくれている事が確かに感じられて、
無機質な医療機器だらけの病室が不思議と心地良い空間に思えました。
(病室に設置されたソファでの寝泊まりだったが驚くほど快眠できた)


母が病院に運ばれてから6日が経ち、不整脈、高熱(41度まで上がる事もあった)、
肌荒れ等気がかりな事はあったものの、
「この時間がいつまでも続いて、そのうちに奇跡的に母が目を覚ましてくれれば…」
等とぬるい期待を抱き始めた12月24日の朝、
担当医が病室を訪れ、僕の座っていたソファの隣に腰掛け改めて母の容態について説明をしてくれました。


・医学上は脳死=人の死であり、本人の意思が確認できずとも臓器提供が可能な状態である
・昇圧剤により心臓には大きな負担が掛かっている
・体温を調整する機能が働いていないので氷枕や冷却材で外部から体温調節しなければならない
・現状点滴のみで、食事による栄養が取れないので栄養失調になりかけている
・「胃ろう」(経口ではなく胃に直接栄養を送り込む方法)という手段で延命を図る事も可能
・「胃ろう」は有用な手段ではあるが、倫理的な問題もある


恐らくこの先はもう長くなく、家族に悔いが残らない様最後の選択肢と意思確認のきっかけを設けてくれたのだと思い、
その日の夕方、病院内デイルームにて家族会議を行いました。


「まだ延命の手段があるなら試したい」
「本人の意志を確認できないまま外科手術で胃に穴を空ける事には抵抗がある」
「胃ろうでの延命を望んでも多分先は長くないだろう」
「仮にこの先の延命措置が上手く行ったとして、意識が戻る見込みが無いまま家族に負担を掛け続ける事になるのを、
意識があった頃の母だったらどう考えるか。誰の為の延命措置なのか。」
「本来なら18日に一度心停止した時点で亡くなっていた。
そこから今日まで家族の為に頑張ってくれたと考えるべきで、これ以上の延命は望むべきじゃない」



各々思いの丈を打ち明け、
人工呼吸器と昇圧剤による延命のみを続け、このまま看取っていく事を家族全員で決めました。
最後まで悩んでいたのは誰よりも献身的な介護を続けてきた父でした。


その夜は兄が5歳の甥を連れて来ていたお陰で病室は明るく少しだけ賑やかでした。
家族皆でささやかながらクリスマスを祝い、「ケーキ、冷蔵庫に入ってるよ」と母に伝え、
消灯後は母の枕元で小さなイルミネーションを点灯しました。
それから間もなく母の心拍数は緩やかに下降して行き、
日付が25日に変わって間もない頃に家族皆に手足をマッサージされながら、静かに息を引き取りました。



母が亡くなった事は勿論悲しいし、もう肉声を聞くことが出来ない寂しさはありますが、
それ以上に10年以上様々な病と闘う姿を見せ、家族皆を成長させてくれた事に対する労いの気持ちと、
最期の1週間、遺される家族に十分な時間を与えてくれた事に、心から感謝しています。
長きに渡り手厚くサポートをして下さった医療・介護関係者の皆様、
そして親族・家族、関係者の皆様、本当にありがとうございました。


母の四十九日法要の日取りが僕の誕生日である2月11日になったのも何かの因縁でしょうか。
向こう側の世界で心ゆくまで庭いじりをしてもらえるよう、気持ちを込めて供養したいと思います。